昭和の漫才界を支えた名コンビ「昭和のいる・こいる」のボケ担当・昭和こいるさんが、前立腺がんのため東京都内の病院で亡くなりました。
享年77歳。長年にわたる舞台活動と、独自の話芸で多くのファンに愛されてきた彼の訃報に、芸能界やお笑い界からも多くの追悼の声が上がっています。
本記事では、そんな昭和こいるさんの生い立ちや経歴、そして気になる**家族(妻・子供・孫)**について詳しくまとめていきます。
昭和こいるのプロフィール
-
本名:庄田 太一(しょうだ たいち)
-
芸名の由来:「昭和を乗り越える」という験を担いだ名前
-
生年月日:1944年1月26日
-
没年月日:2021年12月30日(享年77歳)
-
出身地:群馬県伊勢崎市
-
立ち位置:左(ボケ担当)
-
趣味:酒、カラオケ、読書
昭和こいるの生い立ちと学歴
昭和こいるさんは群馬県伊勢崎市に生まれ、実家は化粧品や雑貨を扱う小間物屋を経営していた裕福な家庭でした。
家族は広島出身で、家では広島弁が飛び交い、こいるさん自身も広島弁を話すことができたそうです。
幼少期から歌が好きで、小学2年生の時には**NHKの「子供のど自慢」**に出演した経験もあります。
芸能の才はこのころから開花していたのかもしれません。
学歴一覧
-
伊勢崎市立南小学校
-
伊勢崎市立南中学校
-
関東学園大学附属高等学校 商業科
-
日本大学文理学部 → 2年時に芸術学部に転部 → 1966年中退
昭和のいる・こいる 結成のきっかけ
1964年、学生時代にアルバイトをしていた神奈川県川崎市の歌声喫茶「エルサルバドル」で、後に相方となる「のいる」さんと出会います。
店では司会進行を任され、そのやり取りが「面白い!」と客の間で話題に。そこから本格的に漫才師への道を志すようになります。
1966年4月、獅子てんや・瀬戸わんやのもとで修業を積み、コンビ「花園のいる・こいる」としてデビュー。当初の芸名は間違われやすかったため、現在の「昭和のいる・こいる」へと改名しました。
賞歴と活動経歴
コンビとしての活動は地道ながらも確実に評価を受け、数々の賞を受賞しています。
-
1976年:NHK漫才コンクール最優秀賞
-
1981年:国立演芸場花形新人演芸会 新人賞銀賞
-
2001年:浅草芸能大賞 奨励賞
1980年代の漫才ブームには乗れなかったものの、1999年に高田文夫の推薦でフジテレビ『初詣!爆笑ヒットパレード』に出演し、突如として注目を浴びるようになります。
ファンだという玉置浩二が曲を提供し、CDも発売されました。
昭和こいるの晩年と闘病生活
2013年ごろから、相方・昭和のいるさんの体調不良により、昭和こいるさんはピンでの漫談活動を中心に続けるようになります。
闘病は2020年頃から始まり、入退院を繰り返しながらも舞台に立ち続ける姿勢には、芸人としての誇りと覚悟がにじみ出ていました。
最後の仕事は2021年11月28日に行われた「鈴々舎八ゑ馬の会ファイナル」での漫談。
このとき、周囲には「これが最後の漫才になるかもしれない」と語っていたそうです。まさに命を削って舞台に立ち続けた芸人魂に、胸を打たれたファンも多かったことでしょう。
昭和こいるの嫁 節子さん 夫婦で営んだスナック
昭和こいるさんの喪主を務めたのは妻・節子さん。詳細な情報は公開されていませんが、こいるさんが**東京都北区王子3丁目で「スナックもしもし」**を夫婦で経営していたことが知られています。
「スナックもしもし」は、かつて群馬県伊勢崎市で経営していた居酒屋と同じ名前で、「地元を離れても思い出を大切にしたい」という気持ちが込められていたのかもしれません。
夫婦仲はとても良かったとされ、闘病中も節子さんが献身的に支えていたと報道されています。
昭和こいるの子供や孫について
現在のところ、昭和こいるさんに子供や孫がいたかどうかについて、公的な情報は一切発表されていません。
ただし、近親者のみでの葬儀・告別式が行われたことを考えると、家族に囲まれて最期を迎えた可能性が高いです。
お子さんやお孫さんがいたとしても、一般人であることからプライバシーを尊重して非公開にしていると考えられます。
昭和こいるの芸と人柄
昭和こいるさんの芸風は、早口でいい加減な受け答えを繰り返す独自のスタイル。「ヘーヘーホーホー」「はい、はい、はい、はい」「そんなもんだよ、しょうがねえ」といったフレーズは、多くの視聴者の記憶に残っています。
また、後輩の面倒見がよく、温厚でユーモアのある人柄でも知られ、漫才協会でも理事を務めていました。
まとめ|「笑い」と「生き様」を貫いた人生
昭和こいるさんは、戦後の日本で「笑い」を通じて多くの人々を元気づけてきた芸人のひとりです。
決して派手な芸能活動ではありませんでしたが、舞台に立ち続けたその姿勢は、同業者やファンの尊敬を集めました。
妻・節子さんと共に築いた穏やかな日常、歌声喫茶から始まった漫才人生、そして命の終わりまで芸に生きた生き様は、まさに「昭和の職人芸人」と呼ぶにふさわしいものでした。
昭和こいるさんのご冥福を心よりお祈りいたします。
コメント