久保浩の嫁や子供は?死因は脳出血 経歴や生い立ちは?

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2025年4月16日、昭和を代表する青春歌謡の歌手・久保浩(くぼ・ひろし)さんが、脳出血による衰弱のため78歳でこの世を去りました。

彼の訃報は、4月28日に日本歌手協会によって発表され、多くの歌謡ファンや関係者に大きな衝撃を与えました。

本記事では、久保浩さんの死因や家族構成、華やかな歌手人生、そして知られざる生い立ちについて詳しくご紹介します。

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目次

◆ 久保浩の死因は脳出血 再発による衰弱だった

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久保浩さんは、2016年に一度脳出血を発症しており、その後リハビリや療養を経て復帰を果たしていました。

しかし、2024年に再び脳出血を起こし、体調は回復せず、療養生活に入っていたといいます。

そして2025年4月16日12時01分、岡山市内の病院で、脳出血による衰弱のため息を引き取りました。

告別式は4月18日に遺族の意向により、家族葬として執り行われました。

喪主を務めたのは、長男の知也(ともや)さん。最後の時間は、ご家族の支えのもと、静かに迎えられたようです。


久保浩の妻は歌手・水沢夕子 子どもは長男・知也さん

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久保浩さんの妻は、同じく歌手として活動していた**水沢夕子(みずさわ・ゆうこ)**さんです。

夫婦で芸能界に携わりながらも、時には地元で経営するパブやラウンジの運営にも力を入れるなど、公私ともに支え合う関係だったといわれています。

2人の間には長男・知也さんがいます。知也さんは芸能界には入らず、一般人として静かに生活されていたようですが、今回の訃報発表の際には喪主として名前が公表されました。

父の最期を見守り、家族葬の取り仕切りも務められたようです。


久保浩の経歴と活躍

久保浩さんは1946年11月1日、福岡県北九州市に生まれました。昭和の歌謡界を彩った「青春歌謡」ブームの真っ只中でデビューし、多くのファンに親しまれました。

● 1964年『霧の中の少女』でデビュー

18歳のとき、作曲家・吉田正氏の門下生としてビクターレコードより「霧の中の少女」でデビュー。この曲は甘く切ないメロディと、清潔感ある低音ボイスで注目を集め、一躍人気歌手の仲間入りを果たしました。

ちなみに芸名の「久保浩」は、俳優・鶴田浩二さんが名付け親であり、自身の名前「浩二」から「浩」を取って名付けたというエピソードもあります。

彼は橋幸夫さん、三田明さんと並び称される「吉田学校三羽烏」のひとりとして活躍しました。


◆ 数々のヒット曲と出演歴

久保浩さんは「霧の中の少女」のヒットに続き、以下のような楽曲でも人気を博しました。

  • 白百合悲し君に似て

  • 哀愁の街に霧が降る

  • 十九の春

これらの楽曲はいずれも、彼の落ち着いた低音と、誠実で端正な風貌によく合い、女性ファンを中心に人気がありました。

また歌手活動と並行して、地方での営業活動にも積極的に取り組んでおり、鹿児島市や福山市でパブを経営するなど、地元に根付いた活動にも注力していました。


◆ 後年の活動とテレビ出演

2000年代以降も、久保浩さんは精力的に歌手活動を続けていました。

  • 2009年:銀座博品館劇場「銀座ACBへようこそ」に出演

  • 2010年:NHK「第42回思い出のメロディー」で『霧の中の少女』を歌唱

  • 2011年:NHK「歌謡コンサート」に出演

  • 2014年:「吉田正の世界」特集にて出演・歌唱

これらの番組を通じて、昭和歌謡のファンや若い世代にもその存在が再認識されました。


◆ 病との闘いと、最後の歌声

2016年に最初の脳出血を発症した久保さんですが、懸命なリハビリにより一度は回復を見せました。しかし、2024年に再発。再び体調を崩し、2025年の春に静かに人生の幕を閉じました。

彼の歌声がテレビで最後に放送されるのは、2025年6月10日放送のBSテレ東「プレイバック日本歌手協会歌謡祭」(17時56分〜)です。この回では、2014年に開催された「第41回歌謡祭」で披露された『霧の中の少女』の歌唱映像が流れます。

また、6月5日には文京シビックホールで開催される「日本歌手協会 夏まつり 唄まつり2025」にて、親友でもあった三田明さんが、久保さんを偲んで『霧の中の少女』を歌唱する予定です。


久保浩の生い立ちと人柄 地元・北九州を愛した男

久保浩さんは、福岡県北九州市で育ちました。青春時代に音楽に目覚め、上京後は吉田正氏に師事して歌の道を歩みましたが、生涯を通じて地元・九州への愛情を忘れなかった人物です。

1980年代後半には岡山で「ラウンジ多恋人(タレント)」を開業するなど、地域とのつながりを大切にしながら、芸能活動との両立を図っていました。

その人柄は穏やかで誠実。派手さはなかったものの、堅実に地道な活動を続けた“職人肌”の歌手だったと言われています。


◆ 最後に:久保浩さんの遺したもの

久保浩さんが遺したものは、ただのヒット曲だけではありません。

彼の人生そのものが、「一つの時代を象徴する青春の物語」であり、地方と芸能界、家族と仕事のバランスをとりながら生きた一人の男の人生の軌跡でした。

彼の代表曲『霧の中の少女』は、今なお多くの人々の心に残り続けています。そして、彼を慕い、彼の曲を愛するファンの記憶の中で、その歌声はこれからも生き続けることでしょう。

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