2024年5月24日、多くの音楽ファンに衝撃が走りました。B’zやZARD、大黒摩季、TUBEなど、「ビーイング・アーティスト」として一世を風靡したアーティストたちを支えてきた音楽プロデューサー・明石昌夫さんが亡くなったのです。享年68歳でした。
SNS上でも「B’z第3のメンバー」「日本音楽界の立役者」として多くの追悼の声が寄せられ、改めて彼の影響力の大きさが浮き彫りになりました。
本記事では、明石昌夫さんの死因や病名、嫁などの家族構成、そしてビーイング(Being)からの離脱解雇理由など、彼の人生とキャリアの裏側に迫ります。
明石昌夫の死因や病名は公表されている?
現時点(2024年5月現在)、明石昌夫さんの死因や病名について、正式な発表はされていません。
訃報を伝えた音楽関連会社「ミュージックユニバース」の公式X(旧Twitter)では、「本日、明石昌夫が旅立ちました」とだけ記されており、具体的な病名などは伏せられたままとなっています。
68歳という年齢を考えると、持病や老化に伴う疾患があった可能性はありますが、突然の訃報に「まさか」という声も多く見受けられました。
SNS上では「体調が悪そうだった」「最近見かけなかった」といった証言もありますが、憶測の域を出ない情報ばかりであり、ご家族や関係者の意向を尊重する必要があるでしょう。
明石昌夫の嫁はどんな人?
明石昌夫さんには、結婚して家庭を持っていたことがわかっています。本人の過去のインタビューや動画発信の中で、奥さん(妻)とのエピソードを語っているシーンがあります。
例えば、Beingを離れたきっかけについて、「大阪に拠点を移すことになって、『奥さんに大阪に来いって言われてるけど、どうする?』って聞いたら、『えー、やだー』って言われたから辞めた」と明かしていました。
このエピソードからも、家庭を大切にする穏やかな人物像が浮かび上がります。
息子や娘といった子どもに関する情報は公式には出ていませんが、私生活についてはあまり表に出さない方針だったようです。
明石昌夫の音楽キャリア|B’z“第3のメンバー”と呼ばれた理由
明石昌夫さんは、1980年代後半から1990年代にかけて、日本の音楽業界において欠かせない存在でした。
特に有名なのが、B’zの初期作品への貢献です。作曲、編曲、サポートベースなど、幅広い役割を担い、ライブでもサポートメンバーとして参加。「B’z第3のメンバー」とまで呼ばれるほどでした。
また、ZARDや大黒摩季、華原朋美、西城秀樹、WANDS、SIAM SHADE、Janne Da Arcなど、多くのアーティストの編曲やサウンドメイクを手がける職人的存在として、業界内外から厚い信頼を得ていました。
その後、自身のバンド「AKASHI MASAO GROUP」を立ち上げたり、YouTubeや大学での講義を通じて後進の育成にも尽力しました。
Beingを離れた理由とは?“解雇”ではなかった
「明石昌夫 解雇理由」という検索が急増していますが、正確には「解雇」ではなく、**複数の事情が重なっての“自主的な離脱”**だったようです。
本人の語る主な理由は以下の通りです。
① アレンジャーとしての限界を自覚
Being内では当初ZARDのアレンジなども任されていたが、後任の池田大介氏のアレンジと比較して「池田くんの方が良い」と自認。自分は「売れてない状態から売れるサウンドを作る」のが得意で、維持し続けるのは苦手と語っています。
② 拠点の移動と家族の事情
Beingの拠点が大阪に移る中、「大阪に来ないか」と打診されるも、妻の意向で東京に残ることを選択。この判断が離脱の一因となったと明かしています。
③ 他事務所との仕事がNGに
SIAM SHADEなど他事務所のアーティストとの関わりが原因で、「やめてくれ」と言われ、悩んだ末に決断。また、元ソニーの関係者に勧められてavexとの契約や麻布十番のスタジオ開設なども進んだことから、Being以外での活動へシフトしていったようです。
“戻れる道”はあった?Beingと和解の可能性
明石さん自身、「誘われればまたBeing関係の仕事もやりますよ」と話しており、完全な絶縁関係ではなかったことがわかります。
実際、WANDSの柴崎浩氏や大黒摩季氏、T-BOLANなども一度離れた後にBeingと再び関係を持っているため、「出戻り」は不可能ではなかったようです。
しかし本人は「同じことをずっとやっているのは退屈」と語り、新しいことに挑戦する姿勢を貫いていました。晩年はYouTubeやスピリチュアルな話題にも意欲的で、自由に発信できる環境を楽しんでいたようです。
明石昌夫さんの死を悼んで|音楽界に残したレガシー
明石昌夫さんの訃報は、90年代のJ-POP黄金期を支えた“名裏方”の喪失でもあります。そのサウンドは多くの人々の記憶に刻まれ、彼が作り上げた音楽の魂はこれからも聴き継がれていくでしょう。
明石昌夫さん、長年のご活躍と数々の名曲を、心からありがとうございました。
まとめ
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明石昌夫さんの死因や病名は非公表
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家族は妻が確認されており、東京に残る選択も影響
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Beingからの離脱は、複数の要因が絡んだ自主的な決断
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「戻れる可能性」はありつつも、自分らしい道を選んだ
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B’zやZARDなど日本音楽界への貢献は計り知れない
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